歴史

関ヶ原の戦いの裏にあったもの

2018.03.16(金)

小早川秀秋は裏切ったのか!

(紙版ミニコミ番号:第105・106号/H27.10・11発行)

小早川秀秋

豊臣秀吉の正妻 おねの甥にあたる秀秋は子のいなかった秀吉の養子となります。

その後、秀吉の子 秀頼が誕生するまでは秀次に次ぐ豊臣家の後継者とされていました。

(秀秋と改名したのは朝鮮出兵の頃です)

※秀吉の姉の長男秀次は秀吉の養子で豊臣家の後継者とみられていました。しかし秀頼が誕生後謀反の疑いをかけられ高野山へ追放後自害させられました。

秀吉に翻弄される人生

転封となった秀秋は秀吉の死後、徳川家康らの計らいで越前国から筑前国に戻してもらえたため、家康には恩義を感じていた。

こうして迎えた関ヶ原の戦い・・・。

このようにみてくると、関ヶ原の戦いで小早川秀秋の動きの裏側にあったものが、少し見えてくるような気がしませんか?

小早川秀秋の裏切りの陰には稲葉正成あり!

十七条城(現在の瑞穂市十七条)で誕生。

春日局の夫であった稲葉正成は豊臣秀吉の命により、小早川秀秋の家老となり、朝鮮出兵・関ヶ原の戦いを共に戦った。

関ヶ原の戦いでの秀秋の裏切りは正成ら家老による家康側への内通があったからと言われてます。

※稲葉正成についてはミニコミ№59で詳しく取り上げています。

※春日局の父、斎藤利光は本能寺の変に関わったとして秀吉に処刑されています。春日局が夫を通して豊臣方西軍を裏切ったとしたら・・・。

 関ヶ原の後、春日局が家康に取り入られ、三代将軍家光の乳母となったことを考えると・・・。

これはあくまでも仮説ですが、裏でこのような取引があったとしたら小早川秀秋の陰には稲葉正成が、その裏には春日局がと言う事になりますね。

本巣市にある山口城で育った古田織部、東軍で参戦

山口城主(現在の本巣市)の弟の子として誕生、城主の養子となりました。

織田信長、豊臣秀吉仕えた優れた武将でありながら、千利休に茶を学び、茶人としても名をあげます。

その人脈は関ヶ原の戦いでの東軍勝利に大きく貢献したと言われています。

垂井町菩提山城主 竹中重門(半兵衛の子)、黒田長政(官兵衛の子)の軍に合力

※合力(ごうりき、ごうりょく)とは、力を貸して助けること(力添え)を言います。

菩提山城(現在の垂井町岩手)を居城とする重門は、最初西軍に属していましたが、岐阜城落城後転じて、長政軍と共に東軍として戦いました。

※信長から子供長政(幼名、松寿丸)を殺せと言われた黒田官兵衛、それを竹中半兵衛が垂井にかくまって命を助けたと言われています。

重門と長政が垂井で幼馴染だったとしたら・・・。

このように、地元出身の武将が関ヶ原の戦いの勝敗に大きく関わっているようです。

大垣と大柿 神戸町に残る逸話

参考資料 『郷土の歴史 ごうど』他

次回からは本巣出身で織部焼に名を残す関ヶ原の戦いでも活躍した古田織部について見ていきます。本巣市山口には古田織部にちなんだ「織部の里」と言う道の駅があり、古田織部についての展示がされています。

一流の武将にして茶人 古田織部へ