歴史

土岐氏南北朝合一まで

2021.01.18(月)

美濃守護 土岐氏

今回は鎌倉末期より足利尊氏に従い、室町時代になると美濃守護に任じられ、その後200年以上に渡り代々美濃国を治めた土岐氏の全盛時代から南北朝合一までの流れを見ていきます。

3代美濃守護土岐頼康の時、全盛期となる

1342年頼康は叔父頼遠の後を継ぎ、美濃守護となると
1351年尾張守護を兼任、さらに
1360年伊勢守護も兼任、3国を治めるまでになります。

数々の戦功、後光厳天皇の美濃行幸(前回参照)で足利尊氏、義詮の熱い信頼を得た頼康ですが・・・

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尊氏が1358年、義詮が1367年と相次いで亡くなり、義満が10歳で家督を継ぐと状況は変わってしまいます。

土岐康行の乱(1389年~1390年)

頼康は弟頼雄の子、康行と満貞兄弟を養子とし、康行が頼康の後を継ぎました。

足利義満が土岐氏の勢力が大きいのを警戒し、頼康亡き後土岐氏の分裂を図り、やむなく康行の乱となります。

頼康の没後、美濃・尾張・伊勢の守護を康行が継承した。

義満は康行から尾張を取り上げ、満貞に与える。

康行から尾張を任されていた守護代詮直は満貞の尾張入国に抵抗して合戦となり、康行もこれに助勢する。

義満はこれを幕府に対する反逆として追討する。

美濃各地での10カ月程の合戦の後、康行最後の拠点、小島城が落ち、康行・康政親子は北国へ没落、乱は鎮圧された。

3代室町幕府将軍 足利義満

父、義詮が37歳の若さで亡くなり、義満はわずか10歳で将軍となります。尊氏・義詮時代に重用された土岐氏・山名氏・大内氏などの守護大名の勢力は義満にとってはかえって脅威となりました。

そのため、次々と討伐され勢力を削がれる事となってしまいました。

義満は1392年には南北朝合一を果たし、室町幕府の全盛時代が築かれました。

康行の乱後

①義満は幕府軍に加わっていた頼康の弟、頼忠を美濃守護に任命以降、この系統が美濃守護を継ぐ。

②翌年の1391年、許された康行は明徳の乱で戦功を挙げ、伊勢守護に再任。

⓷1392年、満貞は明徳の乱での卑怯な振舞いをとがめられ尾張守護を罷免。

結果、強力な団結力を誇った土岐氏は分裂させられ、その後内紛を繰り返す事となっていきます。