歴史

一流の武将にして茶人 古田織部

2018.04.02(月)

古田織部は本巣市出身

(紙版ミニコミ番号:第107号/H27.12発行)

古田織部(本名:重然しげなり 幼名:左介さすけ) 

織部焼に名を残す古田織部。

武将として、また茶人としても一流であったにもかかわらず、江戸時代、歴史上から埋もれてしまった本巣市出身の偉人の一生をまとめます。

生い立ち (1543か1544年~1615年)

現在の本巣市権現山頂上にあった山口城。その城主 古田重安の弟であった古田重定の子として生まれ、城主の養子として育ちました。

古田織部は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に仕えた一流の武将にして一流の茶人、しかし晩年の事件がきっかけでその偉業までもが長い間、日の目をみませんでした。歴史は勝者によって創られるといいますが、その裏にあったものを見ていく面白さもあります。

信長に仕える織部(17才頃)

信長の美濃攻めの頃、信長に仕え、使番として活躍しました。

※使い番とは

戦国時代においては伝令役で、主人の意向を他国や味方に伝えたり、時には調略(味方になるよう説得する)をするなど、とても重要な役割で、戦いの勝敗に直接関わる任務でした。

1578年 播磨国(兵庫県)の神谷攻めに使番

1578年 有岡城の戦い(兵庫県伊丹)で中川氏を説得

1579年 丹波国・丹後国(京都府)の攻略に従軍

1582年 甲斐国(山梨県)の武田勝頼攻めへの従軍

などの功績があります。

この後、1582年、本能寺の変で信長が亡くなると、山崎の弔合戦で秀吉軍に従軍、以後秀吉の配下となりました。

母衣衆について

信長には、黒母衣衆、赤母衣衆という精鋭集団がありました。母衣を身に着けることができるのは、武士にとって大変な名誉でした。

使番として織部もこの母衣をせおっていたでしょうか。

秀吉の臣下となってからの活躍

1582年 「本能寺の変」で信長が討たれたとき(織部39才頃) 「山崎の戦い」(秀吉軍×明智光秀軍)で秀吉につき、以後秀吉の臣下となります。

1583年 「賤ケ岳の戦い」対 柴田勝家

1584年 「小牧・長久手の戦い」対 家康・織田信勝

1585年 「紀伊征伐・四国攻め」

1587年 「九州攻め」対 島津義久ら

1590年 「小田原城の戦い」対 北条氏政・氏直父子

1591年 「朝鮮出兵」

※1585年 秀吉が関白となると従五位下織部正(じゅごいげおりべのかみ)に任ぜられ「古田織部」と呼ばれるようになりました。

古田織部は秀吉の天下統一に向けてのこれらの戦いに武士として参戦するなかで、千利休の弟子としても名を上げ一流の茶人となりました。

千利休(1522年~1591年)

堺(現大阪府堺市)の町人出身の茶人。

茶の湯を政治的に利用しようとした信長により、茶頭(茶の湯の師匠)として重用されます。

信長の亡き後は、秀吉の茶頭となり、戦いにおもむく秀吉に伴い、戦場でも茶会を開きました。

ところが、1591年 突然秀吉から切腹を命じられ、それに従いました。(切腹命令の理由には諸説あります)

次回は茶人として、また家康に仕えた古田織部を見ていきます。

へうげもの 古田織部へ