歴史

美濃土岐氏の流れ①

2020.07.18(土)

美濃土岐氏平安時代

経基清和天皇の皇孫 経基は938年平将門の乱、941年藤原純友の乱で武功し、美濃守に任命される。
満仲続いてその子 満仲も美濃守に任ぜられました。
頼光その後、頼光が美濃守
頼国頼国も美濃守であったため美濃との関わりが深くなっていきます。
※「守」とは、中央から諸国を治めるために派遣される国司の一番上の位のことで上から「守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)」の順です。この時代は在京のまま、この任に就く者が多かったそうです。
国房厚見郡鶉郷(現 岐阜市鶉)に私領を持ち、ここから美濃で勢力を拡大していくことになります。
光国光国、光信、光基は
光信検非違使や北面武士の任に就いていました。
※検非違使は京を取り締まる任務、北面武士・西面武士は宮中警護の任務として中央の信頼を得て、武勇にも優れていたと思われます。
光基

光長の子、叔父光基の養子となり、美濃土岐氏系の嫡流となります。

平安後期の主な乱

1156年保元の乱(後白河天皇×崇徳上皇)光信・光基参戦
1159年平治の乱(平清盛×源義朝)光基・叔父光保参戦
1180年
治承・寿永の乱(源氏×平治)光衡父、光長討死
1185年
鎌倉時代へ

鎌倉~室町時代

美濃守護になるまでの流れ

光衡(平安後期~鎌倉初期)

国房の時、現在の岐阜市を基盤にしていたものが、いつ土岐郡に土着して美濃土岐氏となったのか諸説ありますが、光衡の時ではないかと言われています。

光行西面武士にも名を連ねていました。
光定
頼貞

鎌倉時代の主な乱

1221年承久の乱鎌倉幕府×後鳥羽上皇
1324年正中の変鎌倉幕府×後醍醐天皇
1333年元弘の乱後醍醐天皇×鎌倉幕府

頼貞

(鎌倉後期~室町)

頼貞はこの後、足利尊氏の軍に加わり、室町幕府になると美濃守護に任じられ、以後斎藤道三に土岐頼芸が追放されるまで200年余りにわたり、美濃土岐氏が美濃国を治めました。

続く

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