歴史

樽見鉄道の歴史と沿線風景

2019.05.16(木)

私たちの地域を通る樽見鉄道について書いたのはもう10年以上前、途中で存続の危機と言われた時期もありましたが、ブルー、ピンクなどカラフルにラッピングされたレールバスが毎日元気に走り抜けていきます。

(紙版ミニコミ:第10.11号 H19.11,12発行)

旧国鉄から引き継がれた樽見線の歴史

樽見鉄道は大垣市から本巣市根尾までの34.5kmをを約一時間で走るローカル鉄道です。

その創設から現在に至るまでには紆余曲折の歴史がありました。

大正7年 

地元の住民による樽見線建設陳情運動が始まります。 

大正9年

国が建設を許可。

大正11年

その計画は根尾を通り抜けて、福井県大野町経由、金沢終点という壮大なもの。のち樽見までに縮小されます。

 計画通りなら北陸・日本海がもっと身近だったのに残念でしたね!!

昭和10年頃

最初のトンネルを掘った当時の様子

織部駅を過ぎるとある山口トンネル。

その短いトンネルも手堀りで大変な作業でした。

のみとハンマーで少しずつ掘った。

トロッコで土を外へ運び出すのは女の人の仕事。

コンクリートもスコップで貼り付けていった。

10人程が交代で一人一日トロッコ2.3杯分しか掘れない時もあった。

昭和16年

 太平洋戦争が激しさを増し工事中止!

中止となったばかりか、それまでに建設されたレールや鉄橋は物資不足のため、取り外されて戦地へ。また、山口トンネルは軍隊の倉庫として使われました。

戦後、建設は再開されますが、予算不足のため何度かストップしてしまいます。

昭和31年

国鉄樽見線が大垣駅–谷汲口駅間開通

昭和33年

美濃神海までが開通。

沿線の人口が少なく、昭和35年に本巣市山口で操業を開始した現住友大阪セメント㈱のセメントの輸送が主な収入源で、本巣駅と工場間の専用線路が設置されました。

昭和59年

国鉄樽見線が廃線となることが決まりますが、存続を望む人びとの努力により、第三セクターとしての樽見鉄道として引き継がれます。この時住友セメントが大株主となっています。

経費削減の為、現在も走るレールバスハイモと呼ばれる気動車が投入されました。

レールバスハイモ

※ハイモとはハイスピードモーターカーの略です。

平成元年

樽見駅まで全線が開通 最初の計画開始からは70年の月日がかかりました。

平成18年住友セメントが鉄道輸送からトラック輸送へと転換するなど存続の危機がありましたが、沿線の自治体の支援で現在も継続されています。

「ふる里の鉄道樽見線」「樽見線点描」参照

樽見鉄道沿線風景

JR東海道線大垣駅6番ホームから乗車、東大垣駅を過ぎ、揖斐川の鉄橋を渡り、さい川を越えると見慣れた私たちの町、田園風景の中を走ります。

横屋駅十九条駅美江寺駅(中山道美江寺宿はここで下車)が瑞穂市の駅

北方真桑駅は本巣市上真桑にありますが、開業当時はすぐ東に位置する北方町の名を入れて本巣北方駅としていたため、北方町の名前を残してほしいとの要望に国鉄から樽見鉄道へ移管した時に北方真桑駅と改称されました。

モレラ岐阜駅は2006年開店した商業施設モレラ岐阜の最寄駅として同年開設されました。糸貫駅はあたりに瑞穂市とともに柿畑が多いところ、少し離れていますが、「富有柿の里いとぬき」があります。

本巣駅には本社、車両基地があり、織部駅は「道の駅 織部の里もとす」の開設に伴い翌年に併設されました。

木知原駅は車で織部からトンネルを抜けて谷汲へ右折するあたりにあります。

谷汲口駅からは谷汲山華厳寺へ10分程のバスが連携しており、また桜の名所でもあります。

谷汲山華厳寺は西国三十三か所巡りの33番目最後の札所であり、ここで満願となります。

江戸時代、お伊勢さんへの「おかげ参り」とともに、庶民の旅として人気があり、波が押し寄せる程の人気だったと言う事です。

樽見線の風景は大垣からの田園風景からどんどんと渓谷の中へと入っていきます。

神海駅は平成元年迄の終着駅、昭和33年までは「美濃神海駅」でした。高科駅―鍋原駅―日当駅―高尾駅と山の中を蛇行する根尾川をぬうようにいくつものトンネル、橋梁を通過しながら四季折々の車窓が楽しめる所です。

水鳥駅には明治24年におきたマグニチュード8.0の濃尾震災で生じた断層がみられる「地震断層監察館」があり、終着駅

樽見駅は淡墨桜で有名、お花見の時期には桜ダイヤが組まれます。

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