歴史

和宮の御降嫁

2017.11.04(土)

今回は和宮様の数奇な運命と前代未聞の大行列が中山道を通ったこのあたりの様子をまとめてみます。

前回までと重複になるところもありますがご了承ください。

和宮の御降嫁と中山道

和宮

1846年 仁孝天皇の皇女として誕生。孝明天皇の妹、明治天皇の叔母にあたります。

1851年 5才の時、有栖川宮 熾仁親王と婚約。

しかしその後幕末に向けて、外国から開国を迫られたことで、鎖国と開国の意見が分かれ、国が乱れてきました。

幕府は外国との開国へと進みますが、尊王攘夷派(天皇を尊び、外国を打ち払うと言う考え)との対立が強まります。

それを抑えるため、幕府は公武合体政策(朝廷と幕府が手を結ぶ)として、天皇家との婚姻を朝廷に迫ります。

孝明天皇は何度か拒否しましたが、最後は和宮を嫁がせることに承諾しなければならなくなりました。

和宮も、何度も拒否後、有栖川宮 熾仁親王との婚約も破棄され、泣く泣く御降嫁を承諾されました。

1860年 14代将軍家茂との婚約が発表され、

1861年 和宮16才の時、京から江戸への中山道25日間にわたる盛大な大行列での御降嫁となりました。

前代未聞の大行列

(以下「皇女和宮」より抜粋)

京を出立する時には人7856人 馬280疋という行列であったが、第一夜を大津宿で泊まり、さらに一泊してこれを出立するときには、京方一万人、江戸方一万六千人合計二万六千人にふくらんでいた。

行列の道には京から江戸の清水御殿まで百三十五里(約540㎞)にわたり、厚さ三寸(約10㎝)幅四尺(約1m60㎝)にわたって、浄めの砂が敷きつめられた。

道中御宿泊所の各本陣は、畳を新しくし、上段の間 床の間 襖などはすべて塗り替えられ、縁の下から刀や銃で襲われた時の防御用に、畳表の下には真綿二貫匁が入れられた。

などなど準備から当日まで大変だった様子がうかがい知ることができます。

そんな中、

10月20日 京を出立され

10月25日 関ヶ原宿で昼食 垂井宿で休憩 赤坂宿で宿泊

10月26日 美江寺宿で休憩 河渡宿で昼食 加納宿で宿泊

10月27日 大田宿で宿泊

10月28日 大湫宿で宿泊

10月29日 中津川宿で宿泊

の行程で美濃の中山道を通過していかれました。

※道中は牛車ではなく輿に乗られました。牛車は組み立て式で出立と到着時に使用されたようです。

大垣宿と赤坂宿

当初は3月に美濃路経由の東海道を通られる予定で、垂井宿から大垣宿へ向かい、大垣宿で宿泊の予定でした。

3月12日大垣宿宿泊の予定で準備を行っていた記録があります。

その後、日程が延期となり、道も中山道へと変更になりました。

急きょ宿泊所となった赤坂宿では8月から2カ月ほどで、のちに「お嫁入り普請」と言われる突貫工事で宿場の街並みを整えなくてはなりませんでした。(前回参照)

ただ、御嫁入り道具は当初の通り、美濃路経由の東海道を通ったため、大垣宿では、婚礼道具隊の記録が残っています。

荷物が巨大なため、これを通すためあらかじめ、橋の欄干や城下の入り口の場所を撤去した、とあります。

呂久と美江寺宿

赤坂宿から美江寺宿へは、当時の呂久川を渡らなければなりません。

その様子は前回書きましたが、呂久川を渡船する際安全のため使用したと伝わる鎖5m、和宮手折りと伝わるもみじ葉、和宮が垂井宿から美江寺宿まで履かれた草履などが当時の足跡として残されています。

また、赤坂宿には宿泊の際、宿場関係者の娘が頂いたといわれる御所人形も残っています。

呂久で春秋に行われる皇女和宮例祭や各宿場町で行われる和宮行列、また加納宿や中津川宿などでの和宮様の御食事再現など、当時の様子は今でも語り継がれ次世代へ受け継がれています。

さて、江戸へ着かれた翌年、2月に家茂と和宮の婚礼が行われました。

国をひとつにまとめようとするための結婚でしたが、ますます尊王攘夷が強くなり、幕府による長州征伐にまで発展していまいます。

1864年 第一次長州征伐

1865年 第二次長州征伐

家茂は第二次長州征伐のさなか、1866年大阪城で体調を崩し亡くなってしまいます。わずか21才でした。

そして、和宮との結婚生活はわずか4年でした。

和宮と家茂の仲

政略結婚ではありましたが、結婚後の和宮と家茂がとても仲が良かったというエピソードが残っています。

家茂はとてもやさしく和宮を大切にしていました。そして和宮も家茂の無事を祈って、お百度参りをしたり祈願を重ねていました。

長州征伐に出立の前、家茂から京の御土産は何がいいですか?と聞かれ和宮は西陣織と答えました。

その後、和宮のもとに、病に倒れ亡くなった家茂の亡骸とともに、家茂からの西陣の唐錦が届きました。

その時、和宮は 

 「空蝉の唐織ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」

と詠まれました。

あなたに頂いた西陣の衣、あなたがいなくては、何の意味があるでしょうか と深い悲しみを表しています。

家茂の亡き後も、天皇家から帰ってきてはと言う勧めも聞かず、徳川家の人としての立場を貫き、徳川家存続の為に嘆願書を出したり奔走しました。

明治維新後も家茂のお墓がある増上寺の近くに住み、徳川家の人々とも交流をもっていましたが、脚気で体調を崩し1877年32才の若さで亡くなられます。

増上寺には今も、和宮様の願いどおり、家茂と一緒にお祀りされています。

今回で和宮様と中山道については終わりです。

中山道にはまだまだたくさんの歴史が残っていますが少しお休みをして、次回からは瑞穂市居倉にある「伊久良河宮遺跡」について書いていきます。

倭姫命と伊久良河宮へ