歴史

関ヶ原の戦いと中山道①

2017.12.25(月)

今回から関ヶ原の戦いを取り上げます。

関ヶ原は中山道が通る交通の要衝、また地形的にも山に囲まれた盆地で戦いに適した場所で、古代、壬申の乱も同じ場所で戦われました。

また、岐阜城を攻略後、東軍は中山道の私たちの地域を通過していることから、そのあたりを含めて関ヶ原の戦いを見ていきたいと思います。

 (紙版ミニコミ番号:第93・94号/H26.10・11発行)

関ヶ原の戦い(1600.9.15)が起こるまでの流れ

秀吉は天下統一を果たしたものの、その後の朝鮮出兵失敗や跡継ぎ問題などで体制が揺らぎ始めていました。

自分の死後、豊臣政権の維持を図るため(跡継ぎ秀頼がまだ幼少の為)一人に権力が集中しないよう(特に家康の台頭が脅威)五大老・五奉行の合議による制度を定めます。

しかし、1598年秀吉が亡くなると、家康が台頭、また石田三成派と反三成派の対立など、豊臣政権は内部分裂を始めます。

それでも前田利家が仲裁役となってなんとか均衡を保っていました。

その仲裁役の利家が1599年に亡くなると、内部分裂は激化します。

そんな中、三成襲撃未遂事件や家康暗殺計画失敗などで家康の力はますます増大していきます。

1600年 会津の上杉景勝(五大老の一人)が家康の上洛命令に断りの文を送ったため、家康は会津征伐へ大阪から出陣します。

その留守をねらって、三成が挙兵。

これが関ヶ原の戦いの始まりとなりました。

関ヶ原の戦いの各地での前哨戦

上記地図中の数字の場所が主な前哨戦の場所です。

伏見城の戦い(京都市伏見区)

秀吉の死後、家康が政務を行っていた城。

会津征伐で家康が留守なのをねらって、三成軍(以下西軍という)が挙兵。

まず家康の拠点である伏見城を攻めました。西軍はこの戦いで勝利したものの、予想以上に手こずり戦力を浪費しました。

田辺城の戦い(京都市舞鶴市)

家康の会津征伐に参加した細川忠興の城。

やはり、留守を狙って西軍が攻めました。

西軍が勝利したものの、関ヶ原の戦い本戦に間に合いませんでした。

安濃津城の戦い(三重県津市)

会津征伐に参加した富田信高の城。

交通の要衝にあるため、西軍の攻撃を予測して城へ帰り、籠城しました。

西軍は3万の大軍で包囲したものの、わずか2千の兵を攻めあぐねました。

上田城の戦い(長野県上田市)

真田昌幸の城。

関ヶ原の戦いでは昌幸と次男幸村は西軍、長男信之は家康軍(以下東軍という)に分かれて戦いました。

西軍昌幸、雪村は城に籠城、東山道を西上する徳川秀忠軍は足止めを食い、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。

浅井畷の戦い(石川県小松市)

前田利長(東軍)×丹羽長重(西軍)の戦い

前田利長が丹羽長重の小松城を攻めきれず、大聖寺城を先に攻め陥落させた。

その後、利長の城、金沢城を攻められるという偽情報にあわてて軍を撤退。

その途中、丹羽軍の急襲を受け、脱出したものの、関ヶ原の戦いには間に合いませんでした。

大津城の戦い(滋賀県大津市)

大津城主 京極高次が西軍から東軍に突如寝返り、城に籠城。

その堅固な守りに西軍も攻めあぐね、開城降伏されたのが、関ヶ原の戦い前日であったため、1万5千の兵が本戦に間に合いませんでした。

三成の挙兵を知った家康は上杉討伐を中止して引き返しいよいよ舞台は美濃へと移っていきます。

三成を誘い出すためにわざと家康は会津征伐に出たという説もありますが、どうでしょうか。

次回は東軍の美濃侵攻と西軍の攻防の様子を見ていきます。

関ヶ原の戦いと中山道②へ