歴史

浪士隊 中山道を通る

2018.07.16(月)

のちの新撰組の前身である浪士隊(浪士組)が中山道を京へ通過していったことについて。(紙版ミニコミ番号:第136号/H30・5発行)

浪士隊、中山道を通る!

清河八郎による浪士隊の結成

清河八郎は庄内藩(現山形県)出身の文武両道に秀でた志士。尊王攘夷の思想を強く持ち、幕府から追われる身となります。

仙台や京に潜伏しながら討幕運動を続けるも失敗。

一転、江戸に戻り、幕府に「乱れた京の治安と将軍徳川家茂の上洛警護のため浪士隊を結成すべし」と進言。 幕府にとっても江戸から無頼な浪人たちを追い払うなど何かと好都合だったため、これを受け入れて浪士隊を募集することとなりました。

浪士隊の誕生

「身分は問わない。今まで犯した罪は赦免される。文武に秀でたものを重用する」と募集したところ、300人を超える応募者があり、その中から230余名が選ばれて「浪士隊」が結成されました。

その中には、後の新撰組局長となる近藤勇や土方歳三、沖田総司などがいます。

1863年2月8日京の治安と将軍警護の名目で浪士隊江戸出発

                                                               2月8日から23日の京着まで16日間(1日平均約33km)で中山道を通過していきました。

京に到着後、清河の真意に驚く浪士隊!

幕府の警護が目的と思い込んで京へ来た浪士隊に、清河は朝廷のもとで尊王攘夷を実行すると打ち明けます。

清河は尊王攘夷の為、策略で兵を集めたのでした。

もともと寄せ集めの集団でしたからほとんどの浪士が清河に従いましたが、これに反発した近藤、土方ら20名程が幕府側で治安にあたり、これがのちの新撰組となります。

浪士隊の様子

1863年2月8日 日の出前、浪士隊は上洛の為、小石川の伝通院に集結します。

伝通院前に住んでいた鈴木半平がその様子を『東西紀聞』に記録を残しています。

この資料から武士・浪人・町人・農民等がそれぞれの出で立ちで中山道を通過していったことがわかります。

浪士隊の姿をその記録から探ってみました。

以下『東西紀聞』より抜粋

「・・・・惣髪野郎坊主老若打交右出立〇銘々思々木綿無地割羽織小袴伊賀襠野袴又半天股引割羽織著用中之著込著用白木綿筋銕入鉢巻致候人も有之金無垢太刀拵大小其外拵〇聢は不相分大小ハ何れも長刀を帯居夫々得物手鑓半弓太刀陣刀を所持致し陣笠網代笠蓑蓙を背負ヒ銘々腰兵糧虎之皮引敷居候者も有之凡壹斗も這入瓢箪を背負候者両人有之是ハ用意之焼酎ニ〇可有之哉之由中ニ鹿革紋付割羽織著用致し候者凡二十人程是ハ水戸天狗之連之由右浪士一同勇敷有様ニ御座候・・・・」

※文中(著)は(着?) 

文中以下を絵にしてみました。

①惣髪 ②野郎坊主 ③小袴 ④伊賀襠 ⑤野袴 ⑥半天 ⑦股引 ⑧割羽織 ⑨白木綿筋銕入鉢巻 ⑩手鑓 ⑪半弓 ⑫陣笠 ⑬網代笠 ⑭蓑蓙 ⑮兵糧 ⑯虎之皮引敷

文中以下を訳してみました。

一、金無垢太刀拵大小其外拵〇聢不相分大小は何〇も長刀を帯

訳:純金の金具を使った太刀、大小おそろいかはっきりとわからない。大小2つでなくても長刀を持つものもいて

二、壹斗も這入瓢箪を背負候者両人有之是ハ用意之焼酎

訳:一斗もはいるひょうたんを背負っている者2人いて焼酎でも入っているのだろうか。

三、鹿革紋付割羽織著用致し候者凡二十人程是ハ水戸天狗連之由右浪士一同勇敷有様二御座候

訳:鹿革紋付羽織の20人程は水戸天狗の一派で勇ましい様子だ。

※あくまで想像で正誤は不明ですのでご容赦ください。

このようにさまざまな出で立ちでさまざまな身分の人たちが浪士隊として中山道を通っていきましたが、近藤勇は道中の宿割り役だった為、先に出発しておりこの集団にはいなかったのではないかと言われています。

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