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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も後半になってきました。何かを守るためには親兄弟をも刃にかける、常に生死と隣り合わせの武士を中心とした時代は現代のモラルでは考えられません。
長い歴史の中で多くの人々が戦い苦悩しながら生きようとした足跡を辿ることは平和の重さを考えなければいけない今、大切なことだと思います。
鎌倉に拠点を置いた源氏については当時の東山道、鎌倉街道を中心に数々のゆかりの地があります。平治物語、吾妻鏡、義経記などを元に伝説を辿ってみたいと思います。
※随時追加していきます。
平治の乱に負けて東国へ逃げる途中、比叡山の僧兵たちと戦い堅田から琵琶湖を舟で渡ろうとしますが時化で断念した場所です。(未訪)
1051年前九年の役出陣の際、源頼義が先勝祈願をして以来源氏とゆかりの深いお寺で、平清盛に反旗を翻した以仁王もここ三井寺へ逃げました。
また頼朝の弟義円がここで出家し、頼朝、北条政子の手厚い保護がありました。
弁慶の引き摺り鐘
弁慶はもとは比叡山延暦寺の僧兵であったと伝わります。延暦寺と三井寺は同じ天台宗ですがある時から2派に分裂してしまいます。延暦寺を山門派、三井寺を寺門派として両者の間には激しい戦いが何度もありました。
弁慶は争いの中、鐘を比叡山へ引き摺り上げたものの、鐘が三井寺へ帰りたいというの怒って谷底へ投げたとか。
鐘に残る無数の傷はその時についたものだそうです。
木曽義仲のお墓、巴御前塚、義仲の隣に眠りたいと願った松尾芭蕉のお墓があるお寺
義仲のお墓
芭蕉のお墓・巴御前塚
紫式部が参籠して源氏物語の構想を練ったお寺と言われ、多宝塔は源頼朝の寄進によるものとされています。
源頼朝寄進と伝わる多宝塔
1160.3.20平治の乱で敗走中に捕らえられた頼朝が伊豆へ流されるため京から関東へ行く途中再興を祈願、1190.11右大将となって京へ上洛するとき祈願成就に立ち寄ったとされる神社
境内の頼朝公の出世水
旧東山道森山宿があった所。
義朝一行が平治の乱に敗れて東国へ逃亡中、13歳の頼朝は居眠りをしてはぐれ森山宿(守山宿)あたりで源内兵衛に襲われるも、髭切という名刀で切り倒したと伝わる。村人がその源内を供養してきた塚です。
鏡の宿は旧東山道の宿場、鞍馬山で武芸に励んでいた牛若丸が奥州へ下向する途中ここで元服をしました。平氏の追手から身を隠すために成人に姿を変えるための元服だったそうです。
かつての近江と美濃の国境
近江側の長久寺には義経の愛妾であった静御前が、美濃側には義経の家来源造が泊まっており、義経の行った奥州へ連れてっ行ってと懇願したとの伝説の地。
頼朝の妻妾で義経、義円、全成の母、常盤御前のお墓
関東に拠点を置く義朝は京との往復のたびに、青墓宿に宿泊をし、青墓宿長者大炊の娘(延寿)との間に子(夜叉御前)をもうけた。(父為義も青墓の女北の方を愛妾として子をもうけている)
平治の乱に負けて東国へ逃げる途中、青墓宿に泊まった。(詳しくは次号ミニコミ10月号にて)
義朝の次男、朝長は逃げる途中で足を負傷し、その傷が深くてこれ以上は足手まといになると父に手を下してくださいと頼みます。
亡くなった朝長を大炊氏が手厚く葬るも平氏によって掘り起こされてしまいました。
1181.3 源氏平氏が墨俣川(現長良川)を挟んで戦い、頼朝の義弟、義経の兄(常盤御前が母)である義円が勇み足で討ち取られました。
東山道、鎌倉街道からは離れますが、平治の乱で敗走中、父義朝から青墓宿で命じられて飛騨方面へ向かった長男義平の足跡。
義平はこの地で挙兵のため潜伏していた時、狒々から村人を救ったという伝説があり、その時使った祖師野丸と名付けられた刀が神社に祀られています。
義経は1185年壇ノ浦で平家を滅ぼした後兄頼朝と対立、頼朝から追討されることとなり奥州藤原秀衡の元へ逃れます。
この地は白山信仰の重要な地であり奥州藤原氏との関わりも深かった事から、義経は逃亡中にこの地を頼って匿ってもらったのではないかという説があります。
平治の乱敗走中、義朝は青墓大炊の弟の助けでここから柴舟に乗って知多の野間まで逃れました。現在の源氏橋は当時の場所からは少し外れているそうです。