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春日の中山観音寺を訪ねて

2021.11.25(木)

ゴーーーーン

静寂な春日谷に響き渡る鐘の音

揖斐郡揖斐川町春日中山にある中山観音寺、ご縁があり11月12日(金)、ご住職をお訪ねしてお話しを伺う事が出来ました。

(29日仏様の煤払いに再びお邪魔して、下記に記事を追記しました)

春日中山ってどこ?

岐阜県最南西端の春日中山は、伊吹山地を挟んで滋賀県と接する深い山間にあります。

『春日村史』(昭和58年発行)には、「この山嶺はかつて多くの峠越えの山道が開かれ物資や人の交流が盛んであったが、今は関ヶ原町へ越す車道が開通したのを除くと、昔の交通の姿は見られない」とあります。

大垣方面からは池田山北の谷間を縫って東西に流れる粕川(貝見山を源流として揖斐川町脛永で揖斐川へ注ぐ)に沿って道が整備されており(県道32号線)少し早い紅葉を楽しみながらナビを頼りに🚙

上ヶ流天空の茶畑から春日モリモリ村を通り抜けて細い山道を5km程行くとご住職が立てられた目印の看板が2か所あり無事駐車場へ到着、ネットで見た登り階段がありました。

85段程の階段、一歩一歩踏みしめて登ると心は無!登り切って振り返ると広大な自然が自分の小ささを教えてくれます。

※この階段はムリと言う方にもちゃんとなだらかな迂回路があります。

中山観音寺の歴史

曹洞宗 施無畏山 観音寺

〇1181年(養和元年)創立で元天台宗であった。現在地より上方200mの寺跡地にあったのを、1280年前後(弘安年間)に現在地の東に移転。

〇1596年(慶長元年)天台宗を離脱、無住となり廃寺同様となる。

〇1600年(慶長五年)9月関ヶ原の戦いに敗れた西軍の小西行長が逃れてこの寺に隠れたが、竹中重門(竹中半兵衛の子)により捕らえられる。

〇1601年(慶長六年)小西行長公の供養の為か春日三東一施より千手観音・大日如来・釈迦如来の三尊を譲り受け安置。

〇1635年(寛永十二年)戸田氏鉄公が大垣藩主となる。

この氏鉄公に北ノ丸おさい様と言う姫君があり原因不明の眼病に苦しんでいた。夢のお告げで「粕川谷中山の観音様を信仰しなさい」とあり、お参りする事数度で眼病がすっかり快復。これをきっかけに

〇1648年(慶安元年)氏鉄公が禅宗観音寺と改めて中興、玄滴が開山の祖となる

〇1660年(万治三年)おさい様がお参りに難が多いため栄春院(現神戸町北一色)に千手観音様を御本尊として移され、中山観音寺には別の観音様を安置、それが現在の千手観音像です。

大正十二年栄春院全焼して移された観音様も焼失、この時東の空より火の玉が観音寺本堂へ吸い込まれたとの言い伝えあり。

ご本尊 千手観音像

千手観音様の両側には御簾に隠れて大日如来様と釈迦如来様が座しておられます

〇1733年中山集落の大火によりお寺は消失しましたが、大火の中でも村人の懸命な努力により、この三尊仏は難を逃れました。以降も度重なる火災に本堂をはじめお寺の伽藍や村は焼失しますが、そのたびに奇跡的に仏様は助け出されて現存されています。

これらの火災や災難を小西行長公の祟りと恐れた村は

〇1754年(宝暦四年)観音寺において行長公の大会葬を行い、お位牌を安置して供養を続けた。

小西行長公ご位牌

〇1861年(万延元年)寺屋根裏から出火、10代大垣藩主戸田氏彬により再興され施無畏山観音寺と改められた。

時代の先端を行くご住職!

禅寺と言うと厳しい修行のイメージが・・・。高校の時、永平寺で一泊二日の禅体験、修学旅行気分で夜騒いでひどく叱られました(これは問題外!)

で少し緊張してましたが、とても親しみやすいご住職でした。

春日中山は過疎化でこのままでは消滅してしまう、何とかしなければとインスタグラム、フェイスブック、ツイッターからYouTube、あらゆるSNSを使って発信をされています。

またお賽銭はPayPayでも可、支払い後ご住職に連絡すれば電子御朱印を頂けるシステムまで

パソコンやネットの苦労話などもお聞きする事が出来ました。

初観音・涅槃会・降誕会・大般若祈祷会・地蔵盆・成道会や檀家さんの年忌法要等の行事の合間に月例座禅会・座禅と写経写仏の体験と精力的に活動され、ご自身の修行のお忙しい中、穏やかでにこやかに訪れた私たちに接して下さった事が禅を体現されていると思いました。

※「2021誓い・願いの鐘」大みそかの除夜の鐘終了後から元旦夕暮れの鐘までの間、ご参拝の皆さんに自由大梵鐘を搗いて頂けます(ご住職インスタグラムより)来年のお正月はどうでしょうか?

「歩行禅・警策」 やはり修行のお話をされる時は厳しい表情も

座禅月例会の他、座禅体験・写経体験がここで行われています。

190時間点灯するという太くて長いロウソク、座禅中だけ火を灯しご自身の修行をロウソクの長さではかられているのだそうです。

西美濃三十三霊場十二番札所

私、人生初の納経帳と初御朱印

むすび

ご住職が斬新なお寺の在り方を目指して日々奮闘されている事に感動しました。古き良きもの、日本の精神を新しい時代に受け入れられる形で継承していく事はエネルギーの要る事ですがとても大切です。

堅苦しく考えず、日々の喧騒から離れて春日の深山の空気の中に少しの間身を置き、心を澄ませる、そんな気軽な気持ちで訪れていい場所なんだと清々しい気持ちで来た階段を下りました。

11月29日 仏様の煤払いに再訪

17日ぶりの観音寺、駐車場を降りるといきなり鐘の音が。慌てて携帯のカメラを取り出し歩きながら鐘の音と階段を動画に収め、上でもう一度ご住職の鐘の音を聴くことができました。(鐘の音の動画はインスタにアップしました)

役員さんたちが煤払いの為に集まってまずは和やかに談笑

「どこから来たの?私の娘も近くにいるよ」などと私にも気軽に声をかけて頂き自然と皆さんの輪に入る事が出来ました。

ご住職自ら皆さんへお茶を入れられています。先程の法衣と違うため最初ご住職とは気づかなかった💦

春日出身の写真家、柴田慶子さんもこの日を撮影するために東京から駆け付けられていました。来年のゴールデンウィーク過ぎに東京で写真展を開かれるそうです。

役員さんが作ってきて下さった柚子を巻いた干し柿、ゆずの香りが爽やかな味でした。右はこれから仏様などの煤払いをする掃除道具。

いざ、仏様の煤はらい開始!

仏様の煤払いは見た事がない、と寺総代宮内勇之さん。「仏様の鑑定には見えた事はあるけど私が生きてきた80年程仏様を綺麗にしたことはないと思うけどね。」

貴重な文化財、細心の注意を払いながらの作業で皆緊張して見守ります。

ご住職、仏様を綺麗にしながら出来た時代のお話やもらさず衆生を救うため手が水かきのようになっている事などを説明して下さいます。

仏様以外の所も例年通りすす払い。

通常は12日の写真でわかるように三尊像並んでいるところは見られないのでとても貴重な機会でした。

煤払いも無事におわり再びの談笑

さるすべりの枝打ち

引き続き境内のさるすべりの枝打ち、名前の通り滑りやすいので危ない作業ですが、慣れたもの。

柴田さんと私も切った枝を運ぶお手伝いをしました。さるすべりの枝はずっしりとした重さでした。

気が付けばお昼をとっくに過ぎていて、役員さんがおにぎりとカップ麺、自家製の干し芋をわざわざお家から持ってきて下さり私にも勧めて下さいます。春日の事を色々とお聴きしながら図々しくも美味しく頂いてしまいました。

春日の人々の温かさとお話、深い山中の自然、少し汗をかいた後の最高のひとときでした。

小西神社

中山観音寺の寺総代で小西神社の禰宜を務められている宮内勇之さんがお寺の西にある小西神社へ案内してくださいました。

小西神社はかつて小西行長公のお墓があった場所で、お墓を後ろに下げて神社を建立したそうです。

観音寺にある小西行長兜石

宮内さんによると「誰かはわからないが兜の形をした石を見つけて行長公を弔うためにここに置いたのだと思う」との事でした。

元正庵

中山観音寺はもとは元正庵と言われ、もっと山深い場所にあったそうです。前出柴田さんが10月に宮内さんの案内で元正庵まで登られて手記を冊子にされています。

柴田さんは案内して下さると言ってくださいましたが枝打ちに長く時間がかかり行くことは出来ませんでした。次回案内して下さるとの事でとても楽しみです。

今後は、どうして小西行長公がここへ逃れて来たのかなどを春日の歴史から探ってみたいと思います。