歴史

関ヶ原の戦いと中山道 河渡川の戦い

2018.01.16(火)

前々回、前回と関ヶ原の戦いのきっかけから東軍による岐阜城攻めまでを見てきました。

今回は岐阜城を攻めた後、東軍が中山道を通り赤坂の岡山を本陣と定め、上杉討伐を中止して江戸にとどまっていた家康がいよいよ着陣するまでを見ていきます。

(紙版ミニコミ番号:第97・98号/H27.2H27.3発行)

慶長5年8月23日 河渡川の戦い

黒田長政いち早く西へ向かう (長政は黒田官兵衛の嫡男)

岐阜城攻撃において東軍優位とみるや、東軍の黒田長政らは岐阜城攻めには参加せず、西軍本拠地の大垣城方面へ隊を進めた。 鏡島に着くと対岸の河渡には西軍がすでに布陣しており、河渡川(現 長良川)での激突となった。

① 当日朝は濃霧のため河渡に布陣していた西軍は東軍が対岸に進んできているのに気づかず朝食をとっていた。その時、東軍は銃を発し、川上、川下と分散して川を渡った。

② 東軍の急襲に西軍は応戦するも態勢が整わず、西方面へ後退した。長政ら東軍が呂久川に至るころには西軍は敗走してしまった。東軍はその日、呂久川左岸に宿営し、翌日、赤坂に陣を敷いた。(関ヶ原の戦いまであと20日余り)

※乙津寺(通称 鏡島弘法さん・梅寺)に伝わる話 (現 岐阜市鏡島)

河渡川の戦いの前、長政らはのどの渇きをいやすため、乙津寺に立ち寄り、住職の勧めで寺にあった勝軍地蔵尊の像に勝運を祈願した。

後に関ヶ原の戦いで勝利できたもの、この地蔵尊の霊験であると凱旋帰途の日に再び寺へ参詣されたということです。『乙津寺縁起』より

『黒田の柳』伝説

河渡川の戦いで河渡川を渡っていた長政は、川に流されそうになったが、岸に生えていた柳に槍をあてて這い上がることができたという逸話が残っています。

福岡藩士らは参勤交代の折などに回り道をしてここに立ち寄り、藩主ゆかりの柳の枝を折り、土産にしたと言われています。

その柳は『黒田の柳』と呼ばれ明治の頃まで右岸寄りの川原に残っていたそうです。

翌24日東軍、中山道を赤坂へ進む

河渡川の戦いで勝利した東軍は翌日、大垣城(西軍)から4km離れた赤坂へ進み、江戸城の家康はその知らせでついに出陣!!

※家康は9月14日に岐阜城を出立、進軍がわからないよう東山道あたりを進みました。

岡山本陣

8月24日 赤坂に着いた東軍は岡山(現 勝山)を本陣と定め砦を築いて、大垣城を拠点とする西軍と対峙しながら家康の到着を待ちました。

家康の出陣

8月6日から江戸城にとどまっていた家康は、岐阜城攻略の報が届くと出陣を決意します。9月1日 3万3千の兵を率いて東海道を進みました。一方息子秀忠は中山道を制圧しながらの進軍でした。

上田城の戦い

家康が順調に進む中、秀忠は西軍、真田昌幸、雪村父子の上田城で手こずり、その後も狭く険しい道に阻まれ、関ヶ原の戦いの頃にはまだ美濃には入れていなかったようです。

西軍の動き

岐阜城が落城し、河渡川の戦いで敗れ、大垣城へ籠城し体制を整えながら東軍と対峙しました。9月14日、家康の岡山着陣を知り、杭瀬川の戦いをしかけます。

※「関ヶ原合戦と美濃・飛騨」参照

次回は杭瀬川の戦いから関ヶ原の戦い本番を見ていきます。

杭瀬川の戦いへ