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前回は関ヶ原の戦いが起こるまでの流れと各地での前哨戦を見てきました。
今回は石田三成が佐和山城から大垣城へ、家康が上杉征伐の途中で引き返し、東軍が清州城に結集、美濃へと戦いの舞台が移ってくるところを見ていきます。
(紙版ミニコミ番号:第95・96号/H26.12H27.1発行)
石田三成は、徳川家康が上杉討伐を中止して東海道を西へ向かってくる事を知り、佐和山城を出て8月10日大垣城へ入った。
岐阜城主、織田秀信は西軍に味方することを表明。
木曽川右岸の守りを固め、東軍の進軍阻止を図る。
東軍は二手に分かれて、岐阜城攻めを行い、各地での両軍激突となった。
大垣城に入った石田三成は周辺の領主に西軍への加入を呼びかけた。
16日、福束城主丸毛兼利がそれに応じ西軍に味方したことが判明し、東軍方の今尾城主市橋長勝、松ノ木城主徳永寿昌らと長良川分流大榑川をはさんで、勝・大藪・大榑で合戦をした。
昼間の戦いは一進一退、しかしその夜、市橋軍一隊が楡俣、十連坊に忍び込み、火の手を上げたため東軍の新たな援軍襲来と見たのか丸毛軍は分散、
丸毛兼利は福束城を見捨て大垣城に逃げ、城は東軍の手に落ちた。
福束城趾説明板(安八郡輪之内町福束 福満寺境内)
今尾城趾(海津市今尾小学校)
松ノ木城趾とされる(海津市松ノ木 御霊神社)
東軍、福島正則隊1万6千は、起(おこし)で木曽川を渡河しようとしたが、対岸では竹ヶ鼻城主杉浦重勝や西軍援軍などで守りが強固であったため、さらに下流の加賀野井から渡河。
急に東軍の動きが変わったため西軍は急いで竹ヶ鼻城へ籠城、東軍は城を取り囲み22日、降伏を勧める。
城主は最後まで抗戦を続けたが、午後には力尽き、城に火を放って自害しました。
東軍は竹ヶ鼻城を落城させ、岐阜城へ向かった。
竹ヶ鼻城跡(羽島市竹鼻町丸の内3丁目)
河田(各務ヶ原市川島河田町) 米野(羽島郡笠松町)
東軍 池田輝政隊1万8千が河田で陣をはり、明け方、木曽川渡河を開始。
それを阻止しようとする西軍3千3百と激突し、数に勝る東軍が渡河に成功。
この時、岐阜城主織田秀信も出陣し総指揮を執っています。
同日、西軍が陣をはっていた米野で再び激突。
東軍の勝利により、西軍は岐阜城へ敗走し、東軍は岐阜城攻めへと向かった。
右に見えるのは川島大橋
日枝神社西の説明版
西軍は④⑤の敗退を知り、東軍の大垣城への進軍を防ぐため、河渡に兵を配置した。
そこへ、福島正則隊から分かれた黒田長政らが進軍。
早朝、霧にまぎれて渡河し、西軍を急襲。
大垣城へ敗走する西軍を追って一気に呂久川(現在の揖斐川)も突破した。
④⑤で敗れた織田秀信は8月22日、岐阜城へ籠城しました。
大垣城、犬山城へ援軍を要請するとともに、城への登り口や砦に兵を布陣し、守りを固めました。
一方、木曽川を渡河し、上記の多対に勝利した東軍は、翌朝(23日)岐阜城総攻撃を開始しました。
圧倒的な兵力で登り口や砦を落とし、正午頃には本丸近くまで攻め上がり、一日で城を陥落させました。
※城中より笠をだして振って休戦を求めたとあり、これが当時の降伏のサインだったようです。
その後下山し、浄泉寺(現 円徳寺)で剃髪、関ヶ原の戦い後、高野山に送られ数年でなくなりました。『濃飛両国通史』より
金華山麓にある御手洗池にはこの戦いの時、この上の崖から多くの奥女中が身を投じたと伝えられています。
関ヶ原の戦いの翌年、徳川家康は岐阜城を廃城し、加納城を築城しました。この時、岐阜城の天守や櫓、石垣等を移築転用しています。
次回は岐阜城攻めの後、東軍が赤坂へ向かうまでの様子を見ていきます。
関ヶ原の戦いと中山道 河渡川の戦いへ