歴史

数理地名と条里制

2017.11.26(日)

瑞穂市の数字地名

瑞穂市には十九条、十八条、十七条、本巣市に十四条と数字地名が見られます。

これは古代土地区画整理のなごりで、現在まで地名として残っているのはとても貴重な事です。

条里制とは

土地を一区画6町(約654m四方)に碁盤の目状に区切り、下の図のように一から数字で〇条〇里(理)と付けていきます。さらにその一区画を36等分して〇坪とすると土地の位置がすぐにわかるというものです。

条里制は、班田収授法(652年)頃からとも、また墾田永年私財法(743年)の頃からはじまったともいわれる土地区画整理で、土地を管理しやすくするために行われたのではないかと推測されています。

この土地区画は平安時代、鎌倉時代と全国的に広がっていきました。

しかし、安土桃山時代、豊臣秀吉による太閤検地(1581~)が行われた事により、多くの条里制区画は消えてしまい、それと共に条里制の地名も消滅したと言われています。そんな中、私たちの地域には条里制のなごり地名や遺構が残っています。

条里制の地名

下図のように、本巣市十四条→瑞穂市重里→美江寺→十七条→十八条→十九条、と地域の北から南にかけて数字の付いた地名となっています。

これは条里制に由来するもので、全国でも数少ない貴重な地名です。

※ 重里は旧大野郡三日市場と旧本巣郡十五条の二つが合併した地名であり、美江寺はかつて十六条という地名であり、十四から十九まで、きれいにほぼ同間隔で、北から南へ数字が並んでいることになります。

また、国道21号線の南に満条(条が満ちる)という地名があったとされ、距離からそこが二十一条で北からの条里区画の南端ではないかとも考えられています。

この地方の条里遺構

この条里の起点(一条一里)が道の駅織部の里付近であり、道路の東に山口条里跡の碑が建てられています。

本巣郡北方町高屋条里公園は十五条五里

本巣市十四条の条里制遺構跡

大化の改新(645)の際、班田収授方により残された条里の跡である。本巣市山口を北限とし、南へ一条から十九条(瑞穂市)まで条里をおき、耕地の形を整えた。

本市では、十四条が現在においても字名として使用されており、地名として三条町(十三条)がある。

さらに、条里制の単位である里・坪という区割りでは、本市の軽海地区に西三ノ坪、東四ノ坪があり、政田地区に一ノ坪、二ノ坪、三ノ坪、四ノ坪、五ノ坪の小字名がある。

江戸時代には、この条境が村と村の境になっていた。元は八幡神社の前に小溝があり、十四条と重里(現瑞穂市)との条里の境とされていた。

現在はこの十四条の境の延長上に標柱が建っており、さらに十三条の境と推定されるところに石碑が建っている  (説明文)

重里条里跡

ここは古代本巣郡十五条の地である。

この地域は弥生時代前期に既に稲作農業文化の花が開いていた。この前面に広々と開けていた大農地は、代制開拓の上に一町方格の碁盤目に区画する条里制を当てはめた。十五条と十六条の各二ノ里の地区であった。

ここでは条里制のうちが、土地制度史上の歴史的なものとしてばかりでなく、現代まで地名地割が存続し、生きて有効に働いていた。

昭和の土地改良を機に、この碑を建て、永く後世に伝えるのである。 (説明文)

十七条条里跡

また、犀川の西側には旧大野郡の条里制が広がっていました。五ノ里、有里、六条、五坪など、条、里、坪などの地名からその土地に条里制が敷かれていたことが推定されます。

自分の住んでいる地名の由来を調べることで歴史を知る事ができます。

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