歴史

明智光秀と美濃

2020.02.10(月)

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」光秀の前半生は美濃を舞台に描かれています。

岐阜がゆかりの地と言う事で、吉本新聞ミニコミも昨年12月号より明智光秀について書いています。今後も土岐氏の源流にさかのぼり、美濃の戦乱を見ていきながら本能寺の変までを書いていけたらよいと思っています。

以下、吉本新聞ミニコミ第155号(令和元年12月発行)より

明智光秀(1528?~1582)

※生年については諸説あり

本能寺の変(1582年)で主君・織田信長を討ち(6月2日)山崎の戦い(6月13日)でのちの豊臣秀吉に敗れた事から「三日天下」として知られています。主君に謀反を起こし敗者となったためか、光秀の出自など前半生は謎に包まれていますが、土岐氏(ミニコミ第145号参照・後日詳細掲載)支流、土岐明智氏の出で美濃で誕生したと考えられています。

麒麟

麒麟は中国の霊獣で特にめでたい意味で「瑞獣」(ずいじゅう)と言われます。

毛のある動物の長とされ、温厚で人徳を備えた「仁獣」(じんじゅう)で名君が世を治めるとき現れるそうです。又、才能と人徳を兼ね備えた人を例えて言います。

「麒麟がくる」という大河ドラマのタイトルから光秀を謀反者としてではなく、勇者としての側面が描かれるかと期待されるところです。

後日談・・・麒麟がくるの雑誌の中で、脚本家池端俊作氏が、信長の花押(かおう)が麒麟の「麟」の字を象ったものであることから「麒麟がくる」と題名をつけたと話されていました。

光秀誕生地

光秀出生の地については不明ですが、美濃の数か所、近江などが可能性として挙げられています。

そのうち美濃の5ヶ所について見ていきます。

可児市広見瀬田

明智庄という荘園があった。明智城跡(光秀誕生後30年を過ごした城と伝わる)があります。

瑞浪市一日市場

美濃源氏土岐一族により「一日市場館」という居城が築かれ、土岐発祥の地とされています。

恵那市明智町

明知城(白鷹城)跡、光秀公学問所、母お牧の方墓所、多羅砦(落合砦)、光秀公産湯の井戸などがあります。

山県市中洞

うぶ湯の井戸、桔梗塚(光秀の墓とされる)があり、山崎の戦いで亡くなったのは身代わりであるという伝承が残っています。

大垣市上石津町

『続群書類従』に美濃多羅城で出生とあり、「明智一族宮城家相伝系図書」に享禄元年(1528年)石津郡多羅に生まれるとあるそうです。

↓ここからは吉本新聞ミニコミ156号(令和2年1月発行)

なぜ生誕地や前半生が謎なのか

元々高い身分の家柄ではなかったのではないかとも言われていますが、高い教養や信長が褒めたほどの優秀さからすると、相当の家柄出身ではなかったでしょうか。

「歴史は勝者によって創られる」・・・本能寺の変で主君を討ち、逆臣の汚名を着せられたため、出自などの歴史が消されたと言われています。

生年、出生地、父母が誰なのかさえわかっていません。しかし土岐氏支流、土岐明智氏出身と考えられており、そのゆかりの地を中心に光秀に関する伝承やお墓、産湯を使ったとされる井戸などが残されています。

本能寺の変の動機が単なる逆恨みではない、領地では善政を行い領民から慕われていたなど、光秀の人物像についての再評価がされるにつれ、光秀に関する伝承も広く知られるようになってきました。

本能寺の変後も光秀は生きていた?

山県市中洞に残る伝承

山県市中洞に残る伝承では山崎の戦いで亡くなったのは身代わりで、光秀はその後も生きていたと言う伝承が残っています。

山崎の戦いで敗戦の色が濃くなり、家来の荒木山城守が「身代わりになりますからお逃げ下さい」と申し出た。

光秀はこの言葉に従って中洞に逃げ、隠れ住みました。荒木の「荒」と彼の恩の深さの「深」で荒深小五郎と姓を改めました。

その後、静かに暮らしていましたが、1600年関ヶ原の戦いで、徳川家康に味方しようと出陣。薮川を渡ろうとしましたが、増水していたため押し流されて亡くなったと言う事です。

家来たちが遺品を持ち帰り建てた墓が桔梗塚とよばれ、白山神社近くに安置されています。また白山神社境内には光秀が産湯を使ったとされる井戸が残されています。

瑞浪市の伝承

父、明智光隆、母お牧の方のもと光秀は生まれました。一日市場館跡の石碑に「一日市場館屋形の井戸水で湯浴み、・・・」とあり産湯に使ったと言い伝えられています。父と母は光秀が2歳の時離別し、明智城代の叔父光安に引き取られたそうです。

大垣市上石津町多良の伝承

明智家当主光綱の妹が多羅の進土家に嫁ぎました。光綱に子がなかったため、妹の次男光秀を明智家の養子としました。

可児市広見瀬田の伝承

土岐明智氏出自の地。この地に伝承は残っておらず、地元の人が光秀のことを絶対に口にしてこなかった事こそが生誕地である証拠と考えられています。

次回は美濃の武将と光秀との縁戚関係などを見ていきます。

明智光秀と美濃戦国武将の関係へ