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今回は吉本新聞ミニコミ第157号をそのまま画像で掲載してみました。
資料の信ぴょう性などの問題からすべて関係があったとするのは難しいかも知れませんが可能性として考えられるものを関係図にあらわしています。
これがすべて真実であると仮説すれば、光秀は戦国時代から江戸時代にかけて歴史の表舞台で活躍した人物と深い関わりがあったことになりますね。
『明智氏一族宮城家相伝系図書』では斎藤道三の正室、小見の方は光秀の叔母であり『美濃国諸旧記』では濃姫がその子であるとされている。
それが正しければ光秀と濃姫は従兄妹の関係になります。
従妹の濃姫と織田信長が結婚したため、信長と光秀も縁戚関係であることになります。
斉藤利三は光秀の重臣、本能寺の変にも従っています。
稲葉一鉄は土岐頼芸、斎藤道三、斎藤義龍、織田信長、豊臣秀吉と次々と時の権力者の家臣となっている。
斉藤利三はもとは稲葉一鉄の家臣でした。
また、斎藤利三の母は『徳川実紀』によれば光秀の妹(年齢から叔母ではないか)とされ、その説によれば光秀と利三も従兄弟ということになります。
のちの春日の局は斎藤利三の子、山崎の戦いで父利三が亡くなると稲葉家に引き取られて育てられたと言われています。
お福は瑞穂市十七条の十七条城で生まれ稲葉家の養子となった稲葉正成と結婚しました。
十七条城、春日局と稲葉正成についてはこちらその稲葉正成は小早川秀秋の重臣でした。
関ヶ原の戦いではその勝敗を決した小早川秀秋の裏切りについては、重臣であった正成の進言があったのではないかと言われています。
小早川秀秋の裏切りについてはこちら1542年 | 道三が光秀出自とされる土岐氏を倒し、美濃国主となる |
1556年 | 道三の息子義龍が道三を倒す |
1561年 | 義龍急死により、その息子龍興が家督を継ぐ |
1567年 | 一鉄ら西美濃三人衆が信長に内応し、信長が美濃を掌握する |
1568年 | 光秀が信長に仕える |
1570年 | 利三は一鉄の家臣から光秀の家臣へ変わる |
1582年 | 本能寺の変で光秀が信長を討ち、13日後の山崎の戦いで光秀・利三は秀吉に敗れる |
勝者 | 勝利して天下を取った豊臣家が徳川家康に滅ぼされます。 |
敗者 | 光秀・利三側のお福と正成は家康のもとで乳母・大名として復活をとげている |
山崎の戦いで敗れた光秀・利三の系統が江戸時代の表舞台で活躍をしていることから、光秀が山崎の戦い後も生きていて家康に加担した、天海は光秀だったのではないか、などさまざまな憶測が生れています。
今回は史実に忠実にと言うよりは歴史ロマンの色が濃いブログとなりました、ご了承ください。
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