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(紙版ミニコミ番号:第42・43号/H22.7・8発行)
私たちの町を流れる犀川、瑞穂市十七条の犀川公園から眺める流れを見ても、大きくゆったりとうねって曲がり、まさに美しい江と名付けられた川だと思います。
川は時とともに流れを変え、呼び名が変わり、また上流と下流でも川の名前は変化しますが、犀川はどのように移り変わってきたのでしょうか。
奈良時代以前 ━ 根尾谷から流れる本流でたびたび氾濫する大きな川で舟木川と呼ばれていたそうです。
奈良時代 ━大きな氾濫で本流が糸貫川へ移り、以前よりは小さく流れも穏やかになったと思われます。美江寺観音創立はちょうどこの頃であり「美しい江になった」とあります。
戦国時代 ━1530年の大洪水で上流が現在の根尾川(薮川)へと変わり、旧真正から湧き水を集めて流れる川となりました。「江濃記」という書物には1561年3月浅井長政が美濃に出兵した際、美江寺川まで攻め込んだ(美江寺川の合戦)と記されています。「舟木城古事記」の言い伝えによるとその頃、川幅が100m程あったということですが、どうでしょうか。
『犀川の地名由来』を次の①~④から考えてみたいと思います。
古くから川を境に地域は多く区切られていました。 (五六川も旧穂積地区と旧巣南地区の境を流れています)
大野郡と本巣郡のさかいの川が省略されて境川となった?
※郡の制度が出来てから明治29年改正があるまで、この川を境に西は大野郡、東は本巣郡でした。
※さいの神又はさえの神(道祖神)は邪気や悪霊の侵入を避けるため村の境や道の辻などにまつられる神様で村人や旅人の安全を守るとされたもの。
※霊獣とは神の使いや神を守るとされる想像上の動物。
④全国にもさい川と名の付く川があります。
犀川━岐阜、石川、長野、秋田
斉川━宮城、和歌山
西川━新潟、静岡
佐井川━福岡
狭井川━奈良
才川━山口
犀が日本へ渡来したのは明治中期から大正頃で、それまで日本人は犀という動物を見たことはなかったはずです。
それなのに、江戸中期の地図にはすでに「犀川」と記載されています。
さい川が犀川という字で江戸中期に作成された地図『美濃・飛騨の古地図』より
↓
『中山道河渡宿より呂久渡迄の往還図』
犀の角は奈良時代からシルクロードを通って日本へ運ばれてきていました。
正倉院には唐(中国)などからきた犀角で出来た器や孫の手・薬・犀紋様の織物などの宝物が納められています。
犀角は効能が高く貴重な漢方薬として珍重され、江戸時代には「烏犀圓」(うさいえん)として九州や加賀などで製造されていました。
家康は健康に大変気を遣っており自ら烏犀圓を調合して愛飲していたそうです。
日光東照宮 本殿で神界との境を守る水神・犀
動物の犀とは似ても似つかないですね、角しか知らない犀を昔の人が空想で創り出したもので水を司どり火災から守るとされています。
このように犀は意外にも古くから日本人とは深い関係にあり、神獣にまで高められました。
地域にとって大切な川。しかし、たびたび氾濫して暴れる川に境界を守る水神・犀を重ねる事で、暮らしを守ってもらいたいという強い願いが込められていたと考える事もできるのではないでしょうか。
今回は犀川の由来を上記のように考えてみました。また、舟木城古事記によると川中島合戦犀川の戦いにあやかったとあります。正解は今となってはわかりませんが、様々な角度から想像してみると面白いですね。
浪士隊 中山道を通るへ